続 連休の過ごし方

バイクの教習は緊張でとても消耗するが、教習だけで日々を過ごし
ていたわけではない。


4月29日 「和サンガの集い」 
西大寺グループホームやオーガニックレストランを経営する友人
主催の講座に参加。
量子的視点を取り入れると心身・生活の全てで見方や考え方が変化
して心に大きなゆとりが生れるという宣伝文句につられて、訳も良
く分からないまま参加したが、これがなかなか思った以上に良かった。


講師の説明がどれほど理解できたかどうかは、はなはだあやしいも
のがあるが、なんとなく感覚的に大らかになれそうな気がした。


講師である伊東充隆氏は医師で、東京女子医科大学病院や浜松医科
大学病院勤務を経て、現在は新世代医療研究所を開設して総合医
を展開している。


いくつか印象的だった話は・・・
20世紀は病と闘う医療、21世紀は病と共生する医療。
ガン治療では手術・抗がん剤放射線が主流であるが、これは人体
が閉鎖しており体内と体外は別という見方に基づく。
本来人体は閉じていない開いている、原子レベルではスカスカ。
ガンは固まりではなくエネルギー的なもの、だから喜びの種がその人
に生れればガンは変容して体外に押し出される。


身体は固体的イメージがあるが原子レベルでは空間的なもので、
イメージが形を作る。例えば竜巻は回転現象があたかも物のように
ふるまうが、回転が止まれば消えてしまう。
人体も電子が回転する原子の集まりで回転がとまれば消えてしまう。


外面の世界は多種多様なモノと空間で構成されているが、私達の内面
もモノに当たる心(思考・気分・感情・記憶)と意識(空間に匹敵す
る広がり感のあるもの)で構成されている。


たとえれば広大無辺な青空が意識でそこに浮かぶ雲が心。
明るい雲であればいいが重苦しい暗い雲、暗雲が立ち込めた時、本来
の自分である広大無辺な青空を忘れて、あまりにも暗雲を自己と一体
化してはいないだろうか。


雲はいつかは流れ行く、大きな青空である自分はどう雲と向かい合うか。


とうような話で多分私の稚拙な文では伝わらないであろうが、先生の
話で何となくスッキリ感は残った。
私の本質は広大無辺な青空で感情や記憶の暗雲は流れ行く雲、と自
分に言い聞かす。


5月1日は議会改革フォーラムが生駒市たけまるホールで開催された。
主催は政策研究ネットワーク「なら・未来」


生駒市では現在市議会の運営に係る基本条例制定の準備が進められて
いるので、タイムリーな企画。
すでに議会基本条例が施行されている奈良市天理市の情報も得ら
れるとあって期待をもって参加した。


会場はもう満員で熱気にあふれていた、市民はもとより他市の議員も
沢山参加されていた。生駒市の職員も多数参加していた。
生駒市議もさぞかし沢山来ているだろうと見回しみたが8名ほどで
意外と少なかった。


山下市長も参加していて、熱心に質問をされていた。


議会基本条例は制定する自治体が増えてきて、現在は約400の基本
条例がある。
天理市では2009年、奈良市では2013年4月に議会基本条例が
施行されている。

両市の条例と生駒市議会と徹底的に違うのは、両市とも市長や職員に
反問権を認めていること。
奈良市は施行したばかりで、まだ議会での実際の運用は未だのようで
あるが既に運用されている天理市では反問権で何か不都合があると
は聞いていない。
それどころか議会の方から反問権を行使するよう要請したこともある
らしい。


奈良市議会が反問権を認める理由は、議会の提案修正で条例が出来
ても、何かあれば議員に質問もできず、市長の責任というのは理に
合わない。
議員と市長に情報量の差があるから反問権を認めないという意見も
あるが、議員は政務調査費や情報開示請求で差を埋めることはでき
る。というような内容であった。


生駒市議会が反問権を認めない理由は、行政と議員は情報量が違う
ので不平等。かつて議員の質問に答えないための質問があったから。
というような内容であった。

質問に答えないための質問というのが私の記憶にはさだかではない。
もし、そんなことがあったのなら質問封じのための質問はしないよう
要請すれば済む事ではないだろうか。


奈良市の天野議員の反問権を認める理屈の方が通っていると思う。
識者の廣瀬教授も生駒市の条例で反問権については「ひけた内容」
と講評された。


私は反問権を認めるのは時代の趨勢だと思っていたが意外にも以前
の方が反問権に積極的で、今頃はかえって議会のガードが高くなっ
て反問権に消極的な傾向にあるという。


議会運営に関心の高い市民の多くは、行政に反問権を認めることを
望んでいるのではないか。
パブリックコメントの要請(まだ、どれだけあるか分からないが)
を尊重しなければならない。