7月の視察

7月ももう終り、毎日大変な暑さだ。
母が亡くなってからバイクもずっと乗っていなかった。
先日久しぶりに乗ってみたら暑いのなんのって・・・
長袖ライダージャケット、長ズボン、手袋、マスク、ヘルメットという万全の格好だから、走行している時はマシとしても信号待ちの時は地面からの照り返しもプラスされて暑さが半端じゃない。
半そで半パン、手袋無しと軽装で走っているライダーもいるけど、もし転倒したらどうするんだと思う。
軽装のライダーはカッコいいけど、怖がりの私にはとても出来ない。
酷暑の時期にバイクは気力と体力がいる。

まだ、今の私には気迫が欠けている。

母を思って涙する回数は減ってはきたけど、いつまでメソメソしているんだ、いい加減にしろ!と自分でも思う。

もうすぐ四十九日、そして初盆。
行事を重ねて段々気持ちを整理いくんだな。


さて、かねてから病院事業特別委員会で提案されていた2病院の視察にやっと行くことが出来た。
宇治徳洲会病院と西和医療センターの地域医療連携についての取り組みを学ぶ目的。


宇治徳洲会病院は地元医師会と相当軋轢があったようだが、誠実な医療事業により信頼を得て、開院から4年半かかって医師会に入会した。
開院当初は250床だったが現在は400床、更に来年春には移転して特養や老健も備えて総ベッド数700床の大規模施設となる。

病院施設内も案内してもらった、女性スタッフが働きやすいように24時間保育所学童保育所も整備してあった。


生駒市立病院でも導入予定のリニアックも見学。放射線防御の厚いコンクリートの壁が印象的だった。
ガン患者の6割は放射線治療を望んでいるが設備不足で希望者の3割しか対応出来ていない社会の現状である、と担当医師から聞いた。そのようなリニアックが市立病院に整備されるのは、市民にとってありがたいことだ。今は3人に1人がガンになる状況だから。


地域医療連携のため様々な取り組みもされていて、かなりの成果
は上がっていると感じたが、意外に低調だったのが地域連携(クリティカルパス)や開放病床や手術室の開放、電子カルテネットワーク。
これは西和医療センターも同様であった。


地域医療連携の理想として、生駒市立病院でも取組むべき課題として取上げられたが、実際の運用となれば実態との乖離があって
それ程歓迎される取り組みでもないのかもしれない。


視察を終えてもっと根掘り葉掘り聞けばよかったと、あとで視察報告を書きながら悔やんでいる。詰めの甘い私、せっかくのチャンスなのに勿体無いことを。

戦没者追悼式

母が亡くなって一ヶ月が過ぎた、もう一ヶ月・・・
月日の経つのは早いものだ。

段々気持ちの整理はついてきたが、それでも夕暮れ時になると
いろいろなことが思い出されて涙が出る。
夕方は母と一時を過ごすことが日課だったから、二人で過ごしたことがありありと蘇ってくるのだ。
「もうすぐ、私の家で一緒に暮らせるからリハビリ、頑張ろうね。
我が家に来たら、車椅子でもショッピングやお出かけは出来るから、うんとお洒落して行こうよ。
好きなお芝居や歌劇もテレビで見れるよ。
私がお世話するから安心して任せて頂戴。」なんて、なんとか母の気持ちを引き立てようと一方的に喋り続けていた私。
何一つ実現することなく、夢で終わってしまった。

せっかく学んだ介護技術も母には生かせず、だんだん忘れつつある。

まだ実家には高齢の父がいる、頑丈な人で介護は当分無用。

今日は戦没者追悼式があった、大戦で亡くなった方の遺族の方も高齢化が進み段々参加が少なくなっていくような気がした。
今回はいつになく父のことが思い巡った。父は徴兵されたのではなく、自ら志願して少年兵として軍隊に入った。石川県でたった3名だけが合格して陸軍通信学校に合格し通信兵として配属された。そして満州に渡り命からがら帰国することができた。

第2次世界大戦軍人としては父が一番と言っていいほど若いのではないだろうか、その父が87歳だから当時軍人だった人はほとんど90歳以上ではないだろうか。父も周りはみな年長者ばかりだと言っていた。とても丈夫な父だから、この先うんと長生きして世界大戦最後の生き残り軍人になるかもしれない。

父の世話に週5日帰っているが、毎回戦争の話を聞かされる。
よほど強烈な印象が残っているのだろう、毎回同じ話。
日によっては同じ話が2度繰り返される。
自分で何度も同じ話をしていることが分っているのだろうか・・
機嫌を損ねてもいけないので、一応拝聴はしているが。

自分勝手で思い込みが強く、なんともやりにくいところもある父だが、あの悲惨な戦火をくぐりぬけて生き抜いてくれたお陰で
この私がいるのだ、と思えば、いつもの戦争の話も味わい深い。

そういえば母が亡くなった日も戦争の話を2回も繰り返していたそうだ。

いろいろな亡くなり方はあるが、戦争で命を失うのが一番悲しい、ご遺族の心痛を思う。そして奇跡的に父は帰還できて、今
私がここに存在していることに少なからず感動する。

母のこと

母が亡くなって数えてみれば3週間が経った。
もう、3週間も経ったのだ・・
随分落ち着いてはきたけれど、それでも毎日涙が出る。

特に最期の日が、鮮明に昨日の事のように思い出されてならない。
レントゲンで見た母の腹部の様子は驚くくらいガスが充満していて、胃はペシャンコになっていた。どんなにか苦しかっただろうか、喋れないので苦しさが伝わりにくかったのだろうか、
そんなことを思うと可哀相でならない。

病院の対応で腹部のガスは抜けて一安心したのもつかの間、血圧が下がり始めてもうどうしようもなくなってきた。
血圧が下がっていく時の恐怖感、「しっかりして、逝かないで」と泣いてすがって一旦は持ち直したが再び下がっていって、もう覚悟を決めるしかないと悟ってからは、ただひたすら母に「ありがとう、ありがとう」と何度も繰り返した「あなたの娘でよかった」とも。
最後に「ありがとう」を山ほど言えたことが、せめてもの慰め。

母も何か言いたかったのかもしれないが、言葉は出ないし酸素マスクだったので一言の声をあげることもなく無言のままに逝ってしまった。

死に顔は穏やかで、看護師さんに綺麗にお化粧をしてもらい、まるで眠っているようだった。

あくる日からのお通夜、お葬式は家族だけの12名参列で淋しいものだった。母は生前普通の葬儀を望んでいたが、父の強い意向で
家族葬になった。
そんなささやかな葬儀に山下市長が駆けつけて下さって、驚くとともに恐縮した。不機嫌だった父が大そう喜んで機嫌を取り直し、私も悲しみで打ちひしがれ朝からヘナヘナだったのに、市長の出現で急にシャキッとして姿勢を正すことができた。
多忙な中しかも結構遠方なのに、来てくださって申し訳なさと有り難さで一杯です。


葬儀後は学園前の両親の自宅に弔問客が時々訪れて下さったが、それもしばらくすると、父の強い意思でお断りすることとなった。淋しいと言いながら好意的な人を拒絶する父の気持ちが分らない、だんだん気難しくなっていくのだろうな。


明日7月6日は丁度1年前、母が脳内出血で倒れた日。
救急車の中で早く搬送先の病院が見つからないかと祈るような気持ちで、母に付き添っていたことが思い出される。
それから一年、寝たきりの状態から、つかまってではあるが数分間立つことも出来るようになっていたのに・・・
母の状態が改善すると嬉し泣きをし、症状が悪化したときには動揺して泣く、本当にこの一年は泣いてばかりだった。
こんなにも私は涙もろい人だったのかと、自分でもあきれるくらい、そして今も泣いている。

母親の存在というものは本当に大きなものだ、なんだか亡くなった気がしなくて今も実家で父と暮らしているような錯覚をしてしまう。
でも、もうこの世界のどこにもいない。ああしてあげれば良かった、こうしてあげれば良かったと悔いが残る。
「親が亡くなって後悔しない人は誰もいないよ」
と知人に言われた、そうなのか皆そう思う、そういうものなんだ。

日にちが経っても、いつまでも悲しみは途切れない。

6月議会

いろいろなことがあり過ぎた6月も終わった。
6月議会の後半は、母のことがあって全て欠席したが最終本会議だけは採決があるので何がなんでも行かなくては、いう思いで出席し採決に加わることが出来た。
懸案だった議案・市民投票条例・集団的自衛権に関する憲法解釈を変更しないことを求める意見書・特定秘密保護法の廃止を求める意見書は可決された。
集団的自衛権に関しては全国206自治体から反対もしくは慎重を求める意見書が出された。この多くの不安を振り切って集団的自衛権に突き進む意図が分からない、漠然とした不安の黒い雲が
日本の空を覆うようだ。
ここまで政府が集団的自衛権にこだわるなんて、ひょっとしたら
国民には知らされていないけど某国による日本侵略なんてことが
水面下で密かに動いているなんてことは・・・無いでしょ。
そんな緊迫感は閣僚から感じられない。

また、ここのところ連日巷を賑わしているのが塩村東京都議に対するセクハラ野次。こんな野次が出るくらいだから普段から相当野次が横行する議会なんだろう。首都東京の議会がこんな風だとは思いもよらなかった。
10年以上前は生駒市議会も野次がひどかった、質疑応答する声が聞き取れないこともしばしばで、質問を妨害しているのかと思えるほどだった。
それでもである、セクハラめいた野次だけは一切無かったし普段の会話でも男性議員が女性を見下げるような発言は一切しない。
私生活を語る時は、奥様を敬愛されている様子が伺える内容ばかりだった。
現在の生駒市議会では野次はほとんどないし、あったとしても遠慮がちだし質問を邪魔するようなものでもない。
都議会よりも上品ではないか。

今度の問題をきっかけに、日本中の議会で野次るのも慎重になって静かな議会運営になるかもしれない。

母のこと

6月議会のさ中、私の母はあっという間に旅立ってしまった。
在宅介護を目前に控えての急逝に今でも信じられないくらいだ。

6月16日の朝、介護施設から連絡が入って母親を救急搬送するという。あわてて病院にかけつけて聞く母の症状は腸閉塞によりガスが腹部に充満していてショック状態だった。
腸閉塞はすぐに解除されて、症状が安定してきたかのように見えたので、しばらく入院してもまた退院して在宅に向けての準備が
出来るものと皆、思い込んでいた。
ところが数時間後、血圧が低下して一旦持ち直したものの、その後低下が止まらず、血液の循環が停止して多臓器不全で死亡した。救急搬送10時間後のことだった。

一時期苦しそうな時もあったが、大体において穏やかに迎えられた死であった。身近な親族に見守られての旅立ちであった。

あともう少しで、私の家で一緒に暮らす予定だったのに悔しくて
悲しくてならない。
介護ベッドも車椅子も便器も介護に必要なものを予約し、在宅介護に必要な口腔ケアや献立、移動介助など介護施設から教えてもらって着々と準備を進めてきたのに・・・
ヘルパーの資格までとって備えてきたのに・・・
母も私と暮らすことを楽しみにしていたのに叶わなかった。

在宅介護に意欲的だっただけに母が無くなった今、虚ろで悲しみ
だけが胸に詰まっている。
一緒に暮らしたら、食事を工夫し、好きな芝居のビデオを見てもらい車椅子で外出して、少しは楽しい気持ちになってもらおうと
思っていたのに、もう何も出来なくなってしまった。

遺品を整理していると色々なことが思い出されて涙が溢れる。
「孝行したいときには親は無し」と言う言葉があるが、胸にしみて分かる。せめて数ヶ月でも一緒に暮らして介護ができたら、もう少し気が済んだかもしれないのに。

世話になった介護施設に母の荷物を取り、挨拶に行ったら
母と同じユニットにいるご婦人が私の手を固く握り締めて
「お母さんは苦しみから解放されて楽になったと思いなさい。」
と涙ながらに言われた。

母は寝たきりの状態から、リハビリ訓練のお陰で随分体がしっかりしてきたが、それでも腸の機能低下のため痛みに悩まされることがしばしばだった。そして社交的な母がしゃべれず、字も読めず書けないということが精神的にもかなり辛かったと思う。

苦しみから解放されたと思えば、幾分か気持ちが癒される。

母が過ごす予定だった部屋はまだベッドも搬入されていなかったので、ガランとしたままだ。
空想でベッドを置きそこに母がいて、私は事務をしながら母の様子を見て安心する、声をかけ介助が必要かどうか確かめる、時間がくれば口腔ケアや簡単なリハビリをする・・・もう、そんなことは二度とありはしないのだ。

母を亡くすということは、誰もが経験しなければならないことであるが本当に淋しいものである。いつになったら涙から解放されるのだろう。

体力勝負

今日は体中の節々が痛い、疲労感もあるのは、一昨日、昨日と二日続きで野外活動に参加したから。

一昨日は生駒山スカイウオークで、生駒山から南のコミセンまで2時間近くかかって歩き通した。途中で出店があったりガイドの史跡案内があったりして楽しい道のりではあったが、何しろこの暑さでけっこうキツイ。議員の参加者は約半数、一応健脚でないと歩き通せないので、こうして参加できる体力があるだけでもありがたいと思う。


昨日は生駒棚田クラブでの作業日、炎天下での畑作業は大根と菊菜の収穫、すぐ喉がカラカラになってこれもハードワーク。こうして作業に参加できる体力があるだけでもありがたいと思う。

私60歳還暦、まだまだ大丈夫と安心したが今日のこの体の痛さを思うと
やはり歳なんかなーと切ない自覚。

棚田クラブでは代表に一応今後は参加しづらい事情を伝えておいた。
6月から在宅介護が始まればトイレ介助があるので、2時間以上は家を空けれない。議会など仕事がある日はショートステイを利用して、その日は一泊二日で施設介助をお願いする。

野外活動のボランティアは最低でも3時間はかかるので「棚田クラブ」も「宝の里」も、もう当分参加できそうに無い。

せめて趣味の社交ダンスだけでも練習時間を短縮すれば継続できるかもしれない。これは趣味というより老化防止、身体能力保持のためであるから止めずに続けたいのだが・・・


6月議会が終わればすぐに在宅介護が始まる、初めての介護、未体験ゾーン。一応介護士の資格はとったけどあくまでもお勉強レベル。
母親は全てに介助が必要で失語症、予想以上に口腔ケアが必要で一日7回、夜中も洗浄する。食事も普通食ではなく、細かく砕いたものでな
いと誤飲の恐れがある。

恐るべし在宅介護、この私にどこまで出来るやら、もうすぐドタバタの
介護生活が始まる。

在宅介護の準備

6月下旬から始める母の在宅介護の準備のために昨日、入所している老健施設のケアマネ、リハビリ担当、介護用具業者、在宅後のケアマネ4名が我が家を訪れて、在宅介護の環境と整備の点検や計画について話し合われた。


我が家は狭いので、母の介護ベッドを置く場所はあるが車椅子移動の動線が取りづらい。家具の位置を工夫してどうにか動線を確保。
トイレは全く要介護者には不向きで、改修もできず。
簡易トイレ(おまる)を使う。風呂も全く不向きで自宅での入浴は断念、デイサービスを利用することにした。


今、母が入所している老健は個室でトイレも洗面所もある、清潔で
少人数のユニット形式なのでよく目が行き届いていると思う。
母はこの老健にきてから介護度5からおそらく4になるくらい、身体的
にはしっかりしてきた。

それでも、である、精神的には後退してきた。表情が少なくなってきて
大抵眉間にシワを寄せて憂鬱そうな顔をしている、話しかけても反応が鈍く寝てばかりいる。
おそらく喋れないということも影響しているのだろうが、落ち込んでいるのか認知症が出てきているのか分からない。


この現状を打開するためには思い切って環境を変えてみてはどうか、と
在宅介護に踏み切ることにしたが、さてどうだろうか。
どんなに体が不自由でも、何か楽しみや喜びを少しでも見出してもらえないだろうか。私のつたない介護でどこまできるやら・・・